目次

在宅看取り:二人の大正生まれを自宅で看取った経験から

皆さまは100年生きる想像ができますか?

私は100年も経つと、最後は認知症になってしまうものだと考えていました。

ですが父方の祖母フクばぁちゃんは、年をとっても一人で暮らしで、耳が遠くなってコミュニケーションが取りづらくなっても、認知力の衰えはみられませんでした。毎日新聞を読み、日記を書き、人の輪に入ることをためらわない人だったからでしょう。

この記事の目次

1.フクばぁちゃんの生い立ち

大正10年生まれのフクばぁちゃんは不義の子として生まれ、生まれてすぐに親戚に預けられ育ちました。母親は別の人と結婚し8人の子供を作ったため一緒に暮らせませんでしたが、弟妹らからは長女として慕われていました。預けられた先の親戚は、結婚して伴侶を得るとフクばぁちゃんを邪魔に思うようになり、人並みの愛情を得ずに過ごしたそうです。

2. 7歳上の夫と農業・畜産業を営み、夫に先立たれるまで

年頃になり、遠い親戚だった7つ上の人と結婚しました。そして夫が建ててくれた家に住み、子供を4人産み育てました。夫と共に農業や畜産業を営みながら穏やかに年を重ね、子供たちが巣立った後は夫婦二人の生活になりましたが、お盆やお正月には子供や孫たちが帰省してくれ、大人数で賑やかに過ごす時間が多くありました。

3. 80歳から独身生活を謳歌

73歳になったフクばあちゃんにひ孫が誕生し、その数年後に夫が認知症になって、転倒・骨折・入院して施設に移動します。夫はそのまま数年施設で過ごし、87歳で亡くなりました。

夫が施設に入所している頃から一人暮らしになりましたが、フクばあちゃんは歩いてお買い物に行っていました。遠くまで出かけたいときには娘や息子、息子の妻に支えられ近所に住む友人らに協力してもらいながら楽しく生活していました。

86歳で市の広報誌に「元気な高齢者」として掲載されました。元気の秘訣についてインタビューを受け、フクばぁちゃんも嬉しそうでした。目がくるくるしてとても愛らしく、周囲の人たちからも好かれていました。天気のいい日には、庭で近所の友人らとゲートボールをして楽しんでいました。

ゲームの後には持ち寄りのおやつを広げ、お茶飲みをします。お茶を飲んで休憩をした後、もう1回ゲームして解散です。たまに孫の私が小学生の娘を連れて遊びに行き、ゲートボールを一緒にすることもありました。また、雨の日には、自宅でカラオケを楽しんでいました。

そうして、特に問題もなく生活していたのですが、89歳の時にお風呂を沸かす火で失火してしまい、家を全焼しました。家は小さな山の上にあり、普通車がギリギリ通れるほどの坂道を上った場所にあったため消防車が通ることができず、小さな放水車が到着した頃には家屋のほとんどが焼け落ちていました。

火事の後は一時的に長男宅へ避難していましたが、地元での生活が良いだろうと次男宅に移りました。そして火災後の片づけが落ち着くと近所の人たちが集まり、再び大好きなゲートボールを楽しみ始めました。

4. 93歳で人生初の入院・手術

数年間は次男宅からゲートボール場まで行き来して楽しんでいましたが、92歳頃から足のむくみと息切れ、動悸に悩まされていました。息子の嫁(私の母)が看護師のため、受診を勧めると心不全と診断されました。加齢によるものと診断され、入院してペースメーカーを植え込む手術を行いました。

この時フクばぁちゃんは93歳で、人生初の入院・手術と聞き私は物凄く驚いたのを覚えています。私自身も看護師として働いていますが、臨床で見ていた患者さんはもっと早く入院や手術を経験している人が大半でした。医療や介護を必要としている人も多かったため、フクばぁちゃんは健康的で理想的な人生を歩んでいることをとても嬉しく感じました。

                     

この頃も日記を書いたり新聞を読んだり、大好きな相撲を見たりしながら一人で生活していました。食事は普通食を食べており、あまりによく食べるため、病院では奇跡の人のように思われていました。術後は医師の指示通りに食事に気を付け、毎日決まった時間に薬を飲み、薬の飲み合わせに悪いものは飲まないようになり、大好きなみかんも食べなくなりました。

身体を気遣い、適度な運動・カラオケ・食生活・感染症のリスクを避けながら規則正しい生活を送っていました。高齢者が集まるゲートボール仲間と楽しく過ごしていましたが、一緒に遊んでいた友人たちも時の流れとともに一人、また一人と減っていきました。

友人たちが来なくなると寂しくなるのでデイサービスの利用を考えましたが、認知機能は正常で日常生活動作も自立しているため介護認定を受けることができませんでした。誰かと交流したくても参加できる場所がないのは寂しく感じたのか、この頃から子供たちの家に泊まりに行くようになりました。家族も快く迎えていました。

5. 年をとっても愛される秘訣とは?

フクばぁちゃん子どもは、男女二人ずつで4人いました。それぞれの子供たちの家に泊りに行くと、いつも泊り先の家族のことを褒めていました。フクばぁちゃんは子供のころの経験から、どうすれば人から愛されるか読み取ることができる、いわゆる世渡り名人だったと思います。

子供たちに

「母は自分にだけ気を許している。」

「他の兄妹より母を大事にしよう。」

と思わせるのが得意だったと思います。

場を盛り上げ、気持ちよくお泊りして「また来てね」と、どの家族も言っていました。いつも愛らしい笑顔を見せて「ありがとうねえ」と言う事で、みんなから大切にされることをわかっていました。

歴史に残るような何かをしたわけではなく、ただ103歳まで元気に生きていたというだけですが、『周囲から愛される人になる』というのは一番難しいように思います。

そんなフクばぁちゃんでしたが、いよいよ我が家で最期を迎えることになりました。103歳と2か月で転び、右肩と右大腿骨を骨折しました。手術をしましたが、そのまま寝たきりとなりました。

母方の祖母とは違い、痛みを訴え認知機能も正常だったので、本人の意向に沿わないと「いや」と言うのでケアも食事も思ったように進まず大変でした。そのためお風呂に抱えて行くのは難しく、退院後は訪問入浴を依頼して、週に一回は湯船に浸かるようにしていました。

嫁である私の母が24時間介護を行い、家族から大切にされていました。そして転倒して寝たきりとなってから3か月過ぎた日の朝方。4時頃に水分補給した時は普通に会話できていましたが、7時過ぎに声をかけると返事がなく…。「おかあちゃん?眠っているの?」と母が覗き込むと、ひとり静かに亡くなっていました。

6. まとめ

フクばぁちゃんの生涯を振り返って思うのは、愛される秘訣はコミュニケーション能力の高さだと思います。社交的で、ユーモアを利かせた会話力や認知機能の維持、新聞を読み、日記を書くこと。そうして日々の小さな積み重ねや心がけによって、認知症にならないことが大切だと教えてくれたように思います。

フクばぁちゃんの幼少期の辛い体験があったからこそ、晩年に幸せな時間を過ごすことができたのでしょう。すべての人が愛し愛され、幸せな生涯を終える。そんな社会になるといいなと1人の看護師として願っています。


この記事を書いた人

看護師:栗巣正子 <経歴> 看護師歴 23年  大阪府堺市で、50床~2000床の病院勤務(内科、外科、手術室、整形外科、療養病棟)。 離婚後、鹿児島県鹿屋市にて、老人保健施設、透析専門クリニックに勤務 大手生命保険会社に、営業主任として3年勤めた後、地域密着型の内科総合病院に17年(介護保険病棟、療養病棟、急性期病棟、心臓内科、腎臓内科、肝臓内科、消化器内科、呼吸器内科、腹膜透析、血液透析、外来、救急外来、訪問看護)勤める。 現在は、派遣ナース、非常勤での健診スタッフ、訪問看護指示書作成等の委託業務、ナース家政婦登録 <資格> 正看護師/普通自動車免許/大型自動車免許/けん引免許/たん吸引指導者/ペットセーバー/労災ホームヘルパー(A)

看護師:栗巣正子

<経歴>
看護師歴 23年 
大阪府堺市で、50床~2000床の病院勤務(内科、外科、手術室、整形外科、療養病棟)。

離婚後、鹿児島県鹿屋市にて、老人保健施設、透析専門クリニックに勤務

大手生命保険会社に、営業主任として3年勤めた後、地域密着型の内科総合病院に17年(介護保険病棟、療養病棟、急性期病棟、心臓内科、腎臓内科、肝臓内科、消化器内科、呼吸器内科、腹膜透析、血液透析、外来、救急外来、訪問看護)勤める。

現在は、派遣ナース、非常勤での健診スタッフ、訪問看護指示書作成等の委託業務、ナース家政婦登録

<資格>
正看護師/普通自動車免許/大型自動車免許/けん引免許/たん吸引指導者/ペットセーバー/労災ホームヘルパー(A)

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