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在宅看取り 96歳大往生、ばあちゃんの粋な最期

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母方の祖母ヒサ子は、大正八年生まれです。戦後の混乱の中小さな子供を抱えて、時代と周囲の状況に翻弄されていながらも、自身の思う方向に真っ直ぐ生きていくヒサ子の人生と最期について考えていきます。

この記事の目次

1.意図せぬ再婚

戦争前、北京に住み商売を営む叔母の家で、祖母ヒサ子は幼い頃から家事を教え込まれました。掃除、洗濯、料理など一通りできる子供だったそうです。戦争が始まり、日本へ帰るように促され、乳飲み子を抱えて帰国ましたが、夫が戦死したため一人で生きていくことになりました。実家に寄せてもらって暮らしていた頃、夜這い制度で子供が出来てしまい、意図せず嫁ぐことになりました。

嫁いだ先は前妻の子が7人いる家で、夫は大工をしていましたが、職人気質で気難しく、常に貧乏でした。ヒサ子は朝から晩まで寝る間も惜しんで七人の子の世話をしながら、出産。家事に育児に、日銭を稼ぐための仕事までこなしていたそうです。そうまでしても、大家族は貧乏だったと母が話してくれました。

歩道を歩いている人たちの白黒写真

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2.上等ママさんと呼ばれた家政婦

母が物心付いた頃には、沖永良部島に移り住んでいました。祖母ヒサ子は、病弱な夫に代わって家計を支えていました。幼いころに北京の叔母の家で仕込まれた家政の手技は、右に出るものが居ないほどで、米軍基地内の家政婦の中でもピカイチだったようです。

その為、基地内の上官の部屋の担当を任されるようになり、米兵からは「上等ママさん!」と呼ばれていました。掃除以外にも料理も得意だったので、人より抜きんでて重宝されていたそうです。何をしても、器用で仕事が早い、頭の回転が速かったのだと思います。

そして米軍基地での勤務の後は、大手電力会社の社員寮の寮母を任されていました。寮母なので、若い社員たちの母親的な役割も兼ね、慕われながらも恐れられる存在でもありました。

祖母ヒサ子は4歳と2歳の孫を娘が第三子を出産の間、寮母をしながら面倒をみていました。小さい子供たちを預かりながらの寮内の掃除、洗濯、食事作り、提供、片付けまでこなしていたなんて信じられません。その当時は昭和52年ごろです。電化製品も、既にありますが、それでも今ほどの便利さではなかったでしょう。

ですが、苦労している様子など一切見せずに行っていたヒサ子は、いったい手が何本あったのだろうと今でも不思議です。長期休みのたびにヒサ子のところに預けられ、小学生の頃には、弟と二人だけで行っていました。寮母の仕事の合間にヒサ子から、ゼリーの作り方や、お節の作り方も教えてもらいました。美しいお節料理をすべて作れるというのは、主婦になった今、改めてすごいことだと思います。

3.認知症が始まった

67歳まで寮母の仕事をしていました。仕事を辞め、娘家族と一緒に住むために引っ越してきました。私が中学生の頃です。長女の私は一人部屋をもらい、その隣にふすまを挟んで祖母の部屋になっていました。家族(両親と弟三人)が寝静まった頃、ふすまをトントンと叩く音がして

「正子、まだ起きてる?いちご酒が出来たから飲もう」

「今日は、お饅頭があるのよ。食べよう」

「ぶどう酒を造ったのよ、飲む?」

「映画を観ない?面白いのを録画してあるのよ」

などと誘うのでした。

そして私が進学して家を出た後、男の子三人が成長すると家も狭くなり、一緒の生活に限界がきてヒサ子は一人暮らしを始めます。元々、社交的で姉御肌で魅力的な人ですから、一人暮らしといっても常に近所の友人が遊びに来ていて、庭の隅で家庭菜園をしたりしていました。娘家族は車で10分ほどの距離にいて、年に数回息子家族も会いに来て、楽しく老後を過ごしていたのではないかと思います。

料理が上手な人は舌も肥えています。ヒサ子はグルメでした。

「蟹が食べたいな」

「お肉が食べたいね、ステーキとか」

「ケンタッキー食べたいわ、買ってきて」なんて気ままに言い、実行に移す人でした。

この頃、ひ孫の面倒も時々みており、近所の回転寿司屋までひ孫と食べに行ったり、保育園のお迎えに行ったり。既に80歳でしたが、背筋はピンと伸び、立ち姿が美しく、毎日きちんとお化粧をしていることで70代にも見えないほど若かったのです。また、移動はすべて徒歩だったので、自然と足腰が強くなっていました。

ところが、83歳で肺がんが見つかって放射線療法を受けることになり、入院せざるを得ない状態になりました。すると、入院した病院から真夜中に「家に帰ると言ってきかない。」「暴れて困っている」と連絡があり、何度も言い聞かせに行かなければなりませんでした。

そして入院による環境の変化でせん妄が始まり、認知機能の低下が常態化します。奇跡的に肺がんは改善しましたが、がんのあった左肺の機能はほぼない状態で退院となりました。

肺がんが治っても、認知機能が低下したことで独り暮らしが出来なくなったので娘夫婦の家に住むことになりました。認知症を発症したヒサ子にとっては見知らぬ家ですから更に認知症状が悪化してしまいました。娘夫婦だけでは、ヒサ子の面倒を見きれないほど徘徊がひどく、台所ではボヤ騒ぎを起こし、常に見守りが必要な状態になっていきました。

4.夕方症候群~女性と子育て

2人目のひ孫が産まれました。ヒサ子は我が子だと思い込み、泣いている子を抱き上げてお乳をあげたりしていました。認知症になりながらも、肺の機能が片方しかなくとも、『子供を育てる、守る』という事は忘れないようです。

夕方症候群というのがありますが、ヒサ子も夕方になると「子供にご飯を食べさせないといけないから帰ります」と言って、よく徘徊していました。認知症の人の行動にはすべて理由があると知っていましたが、実際の姿は看護師として大変勉強になりました。

認知症のヒサ子と、再婚した私の娘と息子をお互いに面倒見合おうと母と結託して、一緒に住み始めて我が家は四世代 8人家族となりました。一家団欒もあった穏やかな日々の中、ヒサ子と私は毎晩、子供争奪のバトルを繰り広げます。

ひ孫を我が子だと思っているので、「泥棒~!私の子供をどこに連れて行くのよ!」「警察呼ぶからね!」と怒鳴られ、殴られ、つねられる毎日です。肺の機能が半分のはずなのに階段を鬼の形相で追いかけてきます。息が切れて苦しいはずなのに、全くそうは見えないのが不思議です。

人, 屋内, 窓, 探す が含まれている画像

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5.胃ろうで大喧嘩

ひ孫が成長するのと反比例してヒサ子の身体能力は落ちていきました。食事を摂ることを忘れるようになり、自分で動けなくなり、車いすで移動するようになります。食事を摂らなくなると、体力も体重も激減します。デイサービスに通えなくなり、訪問看護や訪問ヘルパーのサービスを使い、在宅医による訪問診療となりました。

食事が摂れないので、栄養の代わりにと点滴をしてもらい、痩せ細った手足には内出血の痕だらけとなります。自分自身で動けないので、床ずれ防止の為に二時間おきに体の向きを変える電動の自動体交機能付きエアーマトレスを使うことになりました。

ある日、体の拘縮が強くなったヒサ子はベッドからコロンと転げ落ちてしまいました。落ちた時に顔を打ち顔面に青あざを造り、顔や腕の皮がめくれてしまっていました。たまたま見つけた私は、身体が丸まって小さくなっているばあちゃんを、まるで荷物のように持ち上げてベッドへ戻し傷の手当てをしました。

食事は、高カロリー栄養剤を処方してもらい、口の中に注射器型のカテーテルチップで口の端から入れると反射的に飲み込むため、昼間はヘルパーさんに介助していただき、夜は家族で介護しながら1年ほど寝たきりの生活を送りました。

その間、食事について母と私は『胃ろうを造るか、造らないか』で大喧嘩しました。何度も話し合いをお行い、最終的には造りませんでした。あれほど、グルメで食べることも料理することも大好きで、活動的だったヒサ子が別人のようになった一年間。病棟でたくさんの認知症患者と関わっていた私にすれば当たり前の経過でしたが、母にしてみれば「自分の親がなんの意志も示さなくなって死んでいく」のを見ているのは本当に辛かっただろうと思います。

 
歯ブラシと歯磨き粉

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6.ばあちゃんの粋な最期

そして最期の瞬間は・・・

気づいた時には呼吸が止まっていました。

ヘルパーにも訪問看護師にも、身内の看護師二人にも、介護のスキルをあげていた夫にも、誰にも見られることなく、『いつの間にか』、たった一人で旅立ってしまっていました。しかも昼間に。(え?さっきまでなんともなかったよね?)(は?どうして?)と家族に思わせるほど、スッと幕を下ろしたのでした。

あんなに賑やかに生きたばあちゃんなのに、あまりにもあっさりとした幕引きで周囲は驚くばかり。不謹慎かもしれませんが、病院で多くの人の最期に立ち会ってきた私にとっては、「マジで、ばあちゃんかっこいい!」の境地でした。理想の死はピンピンコロリで、息が止まったのを誰かに察知されることなくスッと逝きたいと私も思っています。できれば、ヒサ子のように人を驚かすような『粋な最期』を。

文字の書かれた紙

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この記事を書いた人

看護師:栗巣正子 <経歴> 看護師歴 23年  大阪府堺市で、50床~2000床の病院勤務(内科、外科、手術室、整形外科、療養病棟)。 離婚後、鹿児島県鹿屋市にて、老人保健施設、透析専門クリニックに勤務 大手生命保険会社に、営業主任として3年勤めた後、地域密着型の内科総合病院に17年(介護保険病棟、療養病棟、急性期病棟、心臓内科、腎臓内科、肝臓内科、消化器内科、呼吸器内科、腹膜透析、血液透析、外来、救急外来、訪問看護)勤める。 現在は、派遣ナース、非常勤での健診スタッフ、訪問看護指示書作成等の委託業務、ナース家政婦登録 <資格> 正看護師/普通自動車免許/大型自動車免許/けん引免許/たん吸引指導者/ペットセーバー/労災ホームヘルパー(A)

看護師:栗巣正子

<経歴>
看護師歴 23年 
大阪府堺市で、50床~2000床の病院勤務(内科、外科、手術室、整形外科、療養病棟)。

離婚後、鹿児島県鹿屋市にて、老人保健施設、透析専門クリニックに勤務

大手生命保険会社に、営業主任として3年勤めた後、地域密着型の内科総合病院に17年(介護保険病棟、療養病棟、急性期病棟、心臓内科、腎臓内科、肝臓内科、消化器内科、呼吸器内科、腹膜透析、血液透析、外来、救急外来、訪問看護)勤める。

現在は、派遣ナース、非常勤での健診スタッフ、訪問看護指示書作成等の委託業務、ナース家政婦登録

<資格>
正看護師/普通自動車免許/大型自動車免許/けん引免許/たん吸引指導者/ペットセーバー/労災ホームヘルパー(A)

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