自分が死ぬことを想像したことがありますか?
いつ、どこで、どのようにして自分の命が終わるのかを知っている人はいません。
身近な人が亡くなる経験をして次第に年を重ねていくにつれ、理想の最期の迎え方を思い描くのではないでしょうか。
我が家では、父方と母方の祖母が二人とも私の家で亡くなりました。
いわゆる「在宅看取り」をしました。
それぞれ時期は違いますが父方の祖母フクちゃんは103歳、母方の祖母ヒサ子は96歳
で亡くなりました。主に介護したのは、両祖母から見て子供である私の両親、孫である私、ひ孫にあたる私の子供たちでした。4世代で過ごした、大家族のそれぞれの立場から感じた今の気持ちと、介護の最中の気持ちをお伝えします。
この記事の目次
①ひ孫たちが感じた介護と死
娘が12歳、息子が1歳の時に、曾祖母ヒサ子(認知症、要介護4)と一緒に暮らし始めました。足腰がしっかりしていて背筋もピンと伸びているヒサ子は、毎日のように徘徊し、ひ孫である息子を我が子だと思い込み、「泥棒!子供を返せ!」と怒鳴りながら追いかけてきて暴力をふるっていました。
そんな曾祖母を見ていた娘は、年月が過ぎる中で寝たきりになった最後の時までを見ていました。
娘も一児の母となり、「ヒサ子ばぁちゃんが保育園にお迎えに来てくれて嬉しかった。いつも、ヤクルトを持ってきてくれてね、近くのお寿司屋さんに一緒に行ったこともあったし。認知症になってからは、人が変わったように思えた時期もあったけど、一番面倒を見てくれた人で、大好きだった。
だから食事が摂れなくなって痩せて小さくなったヒサ子ばぁちゃんは、別人のように思えた。進学して家を出て暮らしていたところに、亡くなったと連絡が来て、家に帰りつくまで泣いた。でも、顔を見たら(楽になれたのだから良かったんだ)と思えた。
人が死ぬことを実際に体感したのはこの時が初めてだったから、ちょっと怖かったけど母や祖母がひぃばぁちゃんを大切に着替えさせたりしているのを見て、不安は消えた。最期にはまたいつか会おうね、と声をかけられた。」
息子は、物心ついた時には一緒に暮らしていた曾祖母ヒサ子が、徐々に寝たきりになっていくのを見ていた。入浴を手伝い、湯船の中で浮き上がってしまうヒサ子の身体を支えつつ、ばぁちゃんが悲しむからと嫌な言葉は出さない子でした。
「もういないんだなぁと思うけど、いつかまた会えるんだよね。俺たちもそのうち死ぬしね。」「ひぃばあちゃんは俺にすごく優しかったからお返ししただけだよ。」「小学生の頃は本気で介護ロボット造ろうと思ってた。ひぃばあちゃんのためっていうより、ばぁばとかママの為にね。おむつ替えるとき大変だったでしょ?」と話していました。
②孫の私から見た祖母たちの死
私自身は、療養病棟、介護保険病棟、急性期、亜急性期、外来、訪問看護師としてたくさんの患者様の死を見てきました。仕事として死に向かい合う中、「自分はどのように死にたいか」具体的になっていきました。
周囲の思いは分かりませんが、自宅で家族と生活している中スーッと眠っている間に亡くなっていきたい。どれほど善い行いをすれば、こんなに幸せな最期を迎えられるのだろうと考えるようになりました。
103歳で最期を迎えたフクばぁちゃんは、亡くなる1~2週間前は真夜中に大声で叫び、隣の部屋に寝ていた父と母は、眠れなかったそうです。いちばん遠い私の部屋でも、その声が聞こえるほどでした。
真夜中でもばぁちゃんの声が聞こえる度に両親はベッドから起きだして、声をかけて対応していました。亡くなった後、不謹慎かもしれませんが「これで両親はゆっくりと眠れるようになる」と、正直ホッとしました。
③父が初めて経験する介護と看取り
父は、電気工事会社で定年まで勤め、介護や医療にはほぼ関わることのない人生でした。定年した数年後に、義母のヒサ子が肺がんから認知症になり徘徊が始まりましたが、施設に入れるほど年金のないヒサ子を自宅で看るのは当然の流れでした。
徘徊している頃はまだ、食事も自分で食べられるし、徘徊はするけど助手席に乗せて買い物に行くことも出来、父は父なりに介護していました。ですが次第に食事を摂れなくなって体重が減り、動けなくなって寝たきりになっていきました。
人間は生きている限り食事―排泄―保清(入浴)―食事―排泄を繰り返します。自分自身で出来ない事は誰かの手を借りることになり、24時間365日介護は休むことなく続きます。定年退職していた父は、身をもってその大変さを知ることになりました。
父は、フクばぁちゃんのお葬式のとき「妻と娘が看護師でよかった。そのおかげで義母も実母も自宅で幸せな時間を過ごせた。介護経験者が、医療のプロが自宅に居るという事は、どれほど心強いことか。」「大家族の我が家だったから分担することが出来たし、自分の親を看てもらえて感謝している」と話していました。
④実母と義母の死、キーパーソンである母の後悔
母は、良くも悪くも真っ直ぐな人です。看護師という職業を全く違和感なく「私の天職です!」と力いっぱい言える人です。慈愛に満ち、他者への思いやりが溢れている人なので、姑から嫁として関係が悪かったときのことなど綺麗さっぱり忘れ、姑を本当の母親だと思って大事に出来る人でした。我が家の在宅介護が万全の状態で行えたのは母がいたからです。
実母のときも義母の時も、キーパーソンとして主治医や医療スタッフと話し合いサービス介入までの段取り全てを行いました。母は、自分の親であるヒサ子ばぁちゃんの時は「胃ろうを造ってでも生きていてほしい。死んでしまったら自分の親は居なくなるから、残されるのは寂しい」と言っていました。
その11年後、義母の余命宣告があり我が家で生活することが決まり、母はとても喜んでいました。「自分に残っている親は、義母のフクばぁちゃんしか居ない。103歳だけど、出来る限り長生きしてほしい」と言って介護していました。
そして亡くなってからは、毎日仏壇に手を合わせて泣いて、遺品を片付けては泣いて、思い出しては泣いている日々でした。ですがその反面、義母が居なくなったことで家を空けられるようになりました。今までは、ばぁちゃんが居るからと遠出は一切しなかった母が「行きたい、行ってみたい、行こう」と行動するようになりました。
母はこんなふうに話していました。「思い出せば会いたくなるし、もっといろいろしてあげたいことがあったのにって思う。寂しいけど、次は自分があちらに行くことになるんだと最近は思うようになってね。」「後悔はあるけど仕方がないしね。もし生まれ変わっても同じ母親のところに産まれたいなって思っているよ。」と。
⑤まとめ
大家族ならではの立ち位置から、人の生命の最後についてそれぞれが思うことがあります。大正生まれのばぁちゃんを二人とも自宅で看取る経験はなかなか出来ないのではないかなと思います。医療・介護に携わる人にとっては人の生死は日常にありますが、そうでない人は、目の前で見る、触れる機会は希少です。
そういった意味では、私の子供たちには介護や人の最期がどうなるのかを直接見せることが出来て良かったと思っています。
『死は平等に訪れる』
どんな人にも必ず訪れます。いつか必ず来る死について、普段から身近な人たちと語り合えるといいなと思います。
両親にも子供たちにも「次は私かもしれないけど、何もしてくれなくていいから黙って見送ってね。」「葬式もお墓も要らないからどこかに散骨してね、あの歌を歌って。わたしの~おはかの~ま~えで~ってね」と伝えています。
昔、習った『在宅は世界最高の特別室』という言葉が私はとても気に入っています。両祖母は最高の環境で、最高のスタッフにケアしてもらえて最高に幸せな最期を迎えたと自慢出来ます。いつかまた、私の人生を全うしたとき、あちらの世界で両祖母に会えたら「どうだった?」と聞いてみたいと思います。
拙い話にお付き合いいただきありがとうございました。二人の祖母を自宅でお看取りをした話を5つの記事に分けて書いていますので、よかったら検索してご覧ください。
この記事を書いた人
看護師:栗巣正子
<経歴>
看護師歴 23年
大阪府堺市で、50床~2000床の病院勤務(内科、外科、手術室、整形外科、療養病棟)。
離婚後、鹿児島県鹿屋市にて、老人保健施設、透析専門クリニックに勤務
大手生命保険会社に、営業主任として3年勤めた後、地域密着型の内科総合病院に17年(介護保険病棟、療養病棟、急性期病棟、心臓内科、腎臓内科、肝臓内科、消化器内科、呼吸器内科、腹膜透析、血液透析、外来、救急外来、訪問看護)勤める。
現在は、派遣ナース、非常勤での健診スタッフ、訪問看護指示書作成等の委託業務、ナース家政婦登録
<資格>
正看護師/普通自動車免許/大型自動車免許/けん引免許/たん吸引指導者/ペットセーバー/労災ホームヘルパー(A)