ある日突然、昨日まで元気だった家族が意識不明の状態になって、医師から「回復の見込みがない」と宣言されたら、多くの人は深い絶望に包まれるのではないでしょうか。
「もう二度と笑ったり、話したりできないの?」と、想像するだけで胸が締めつけられる思いがします。そして、「これからの生活はどうなるのだろう」「自分に何ができるんだろう」と不安や戸惑いに襲われることでしょう。しかし、半年以上の意識障害が続き遷延性(せんえんせい)意識障害と診断された人の中に、医学的な予測を超えて回復された事例があります。その回復を支えたのは、人が持つ回復する力を信じ、五感を通して脳に働きかける関わりでした。
この記事では、その考え方と実際の事例をご紹介します。
この記事の目次
1.脳は刺激を求めている
脳は、私たちの身体全体をコントロールする司令塔です。事故や怪我、病気などにより脳が損傷すると、その程度や部位によって様々な障害が現れます。
そして、意識障害を発症すると声かけだけでなく、身体を動かしたり、痛みを与えても反応が返って来ないことがあります。さらに、高齢者が長期間寝たきりの状態で過ごすと、徐々に反応が乏しくなることが少なくありません。
ここで共通しているのは、会話や活動が減ることで脳に届く刺激が少なくなることです。脳への刺激が減ると覚醒レベルが低下し、周囲への反応がさらに乏しくなる傾向があります。反応が少ないと周囲も声をかける機会が減り、脳への刺激がますます少なくなるという悪循環に陥ってしまうのです。
このように、大切な人が、どれだけ呼びかけても反応が返ってこない状態になったら――。「もう、私の声が届かなくなってしまったの?」「二度と声が聞けないの?」と、ご家族は不安な気持ちになるかもしれません。
しかし、本当に脳は何も感じていないのでしょうか。実は、反応が見えなくても脳がすべての働きを失ったわけではありません。
脳は今も外からの刺激を受け取り、回復するきっかけを待っている可能性があるのです。そして、人間の身体は私たちが思っている以上に、回復をあきらめていません。
では、脳が求めている刺激とはどんなものなのでしょうか。
2.五感は脳への大切な入り口
私たちは五感を通して周囲の情報を感じ取り、危険を察知したり心地よさを感じたりしています。美しい景色に心が癒やされることもあれば、好きな音楽に元気をもらうこともあります。人との触れ合いにぬくもりを感じて安心し、懐かしい香りや味に思い出がよみがえることもあるでしょう。
このように五感は、脳へと情報を伝える大切な入り口なのです。脳はこれらの情報を受け取ることで、私たちが快適に、そして安全に暮らすための判断を下しています。
つまり、五感からの刺激が届くことが、脳を生き生きと働かせるために欠かせないのです。
3.NICDが重視した「生活からの刺激」
看護の世界には、五感からの刺激を大切にした取り組みがあります。
NICD(Nursing to Independence for the Consciousness Disorder and Disuse Syndrome Patient)は、遷延性意識障害や寝たきりで廃用症候群を起こした患者さんを対象に、看護師・紙屋克子氏らによって実践されてきた看護技術です。
その根底にあるのは、「人は生活の中で多くの刺激を受けることで、本来持っている力を発揮し、意識の回復につながる可能性がある」という考え方です。
NICDでは、①身体づくり②自由に動かせる身体を取り戻すこと③生活行動を取り戻すこと、の3つを柱としています。
例えば、朝になればカーテンや窓を開け日光を浴びる、挨拶をする、暖かいタオルで顔を拭く、口腔ケアを行うといった日常的なケアを大切にします。
朝の光を見る。
新鮮な空気を感じる。
声を聞く。
暖かいタオルに触れる。
さっぱりした感覚を味わう。
これらはすべて、五感を通じて脳に届く刺激です。
また、手足が自由に動くように身体を温めたり動かしたりするときも、看護師は絶えず声をかけながら患者さんに触れます。
人の手の温もりや柔らかさ、動きによって生まれる感覚も、脳への大切な刺激となります。
さらに、早い時期から座る練習を行い、食事・着替えなどの生活動作を通じて「生活していた頃の記憶」を呼び覚ます働きかけを行います。NICDは単なるリハビリではありません。
日々の暮らしそのものを脳への刺激として活用し、人間が本来持っている回復する力を引きだそうとする看護なのです。
4.反応がなくても伝わっているかもしれない
意識障害のある人は、一般的にどんな刺激にも反応が少ないと言われています。
重度になると最も強い刺激の一つである「痛み」に対してさえ、反応は乏しくなりがちです。しかし、このようにはっきりした反応がなくても、刺激そのものは脳に伝わっている可能性があります。
握った手の温もり、ご家族の声、好きな音楽、好きな香りや味、温かいタオルや冷たい氷――。
こうした五感からの刺激によって、注意深く観察しないと見逃してしまうような、ごく小さな変化が身体に現れていることがあるのです。
紙屋氏の活動を伝えたNHKスペシャル「あなたの声が聞きたい~“植物人間”生還へのチャレンジ~」では、録音された旧友の声を聞いた重度の意識障害患者さんが涙する場面が映し出されていました。
さらに紙屋氏は、意識障害から回復された方々から「早い段階で意識は戻っていたが、それを周囲に伝える手段がなく、諦めかけていた」という言葉を聞いたそうです。
脳の障害によって「反応したくてもできなかった」というのです。
このように、すべての意識障害のある人が回復できるわけではありませんが、可能性が残されていることを、私たちは決して忘れてはいけません。
反応を引き出すきっかけとして、大きな力を発揮するのは「その人の好きなもの」です。
そして、その「好き」を一番よく知っているご家族こそが、回復を促す大切な刺激の担い手なのかもしれません。
5.人間には回復する力がある
本来、人間には自ら回復しようとする力が備わっています。脳に障害を受けると失われた機能は二度と戻らないと思われがちです。
しかし、脳には残された神経細胞が新たな繋がりを作り、失われた機能を補おうとする働きがあることがわかっています。
このように脳が変化し、新たな回路を作り出す力を「可塑性(かそせい)」といいます。
たとえ見た目に反応がなくても、さまざまな刺激を受け続けることで脳が変化し、新たな回復の道筋が生まれる可能性があります。だからこそNICDでは、生活の中の刺激を大切にしているのです。
また、こうした人間が本来持つ回復する力の大切さを、100年以上前から説いていた人がいます。「看護の母」と呼ばれるフローレンス・ナイチンゲールです。
ナイチンゲールは、病気を治すのは医師や薬だけでなく、人間が本来持つ生命力であると考えました。そして、その力が十分に発揮できるよう環境を整えることこそが看護の役割であると述べています。
生活リズムを整え、五感に働きかけ、生活行動を支えるNICDの実践は、ナイチンゲールが大切にした「人間の回復する力」を現代の看護に発展させたものともいえるでしょう。
まとめ
私たちは、日々五感を通じて多くの刺激を受けながら暮らしています。意識障害のある人は反応が乏しいため、「何も伝わっていないのではないか」と感じてしまうことがあります。しかし、反応が乏しくても刺激は脳に届いている可能性があります。ご家族の声や手の温もり、好きな音楽や香りなど、その人らしい刺激が回復へのきっかけになるかもしれません。人間が持つ回復する力を信じ、生活の中のさまざまな刺激を大切にすることが、回復への第一歩になるのではないでしょうか。
参考資料
中外製薬 日本ヒューマン・ナーシング研究学会編.意識障害・寝たきり(廃用症候群)患者への生活行動回復看護技術教本.メディカ出版.2015年
この記事を書いた人
看護師:青木 容子
〈プロフィール〉
看護師経験30年
(病院勤務通算8年、身体障害者施設3年、訪問看護15年、そのほか新生児訪問指導など)
現在は特別養護老人ホームなどで勤務する傍らCANNUS新長田を運営中。
紙屋克子氏らから、NICD:意識障害・寝たきり(廃用症候群)患者への生活行動回復看護を、黒岩恭子氏からは黒岩メソッドを学び、実践するとともにそれらの普及を目指している。