その人の持っている生命力に寄り添いながら、自然な形で迎える死のことを平穏死(へいおんし)と言います。もし、大切な人がもう食べたくないと言ったら、死ぬのは怖くないと言ったら、私たちはその言葉をどう受け止め、どう思うのでしょうか。今回は、ある男性患者さんの死生観と、ご家族が揺れ動く思いの中で治療の選択を重ねていかれた姿を通して、平穏死について私が感じたことを書いています。
この記事の目次
1.穏やかな最期を迎えたい
この患者さんに出会ったのは、私が訪問看護師をしているときでした。患者さんは80代前半の男性で、骨折の入院をきっかけに食欲が低下し体重が減り、このまま食事を摂れなければ死が近いと医師から告げられていました。過去に胃の手術をした経緯があり、胃瘻は選択肢にはありませんでした。その後、転院を機に主に点滴による栄養管理が行われ、少しずつ食べたいという意欲も戻り、体重も増え無事に退院できたという経過があります。
骨折の治療自体は終えたものの、一人で歩くことは難しくなり、退院後も一日の大半をベッド上で過ごされていました。介護保険を利用して訪問看護や訪問リハビリのサービスを導入しましたが、リハビリを自主的に行う意欲もなく歩行機能の回復は難しい状態でした。退院後しばらくの間、食事は摂れていましたが、日が経つにつれ少しずつ食事量が減っていきました。その度に心配する家族や医師に促され、渋々入院し点滴治療をするといった繰り返しでした。
何度目かの入院を前に患者さんはこう言いました。「入院なんかしたくないよ。点滴も嫌だ。食べられる量だけ食べていれば、それでいい。看護師さんも歳を取ればわかるよ。」「自分は一度、死の淵をさまよったことがある。その時に分かったのだよ。死ぬ間際ってドーパミンが出るというか、不思議と怖くないのだなって。」
近年の研究では、自然な老いが進むと、脳内にβ-エンドルフィンというモルヒネに似た神経伝達物質が分泌されることが分かっています。その作用によって、死の間際にはむしろ苦痛が和らぐと考えられているのです。患者さんはご自身の体験から、その自然の仕組みを本能的に感じ取っていたのかもしれません。
私が「ご家族が寂しくなるのではないですか?」と声をかけると「それは仕方ないよ。先に逝って待っているから。そういう気持ちだな。」と答えてくださいました。その言葉には、これまでの人生の充足感と自分自身の揺るぎない死生観がありました。
2.家族の葛藤
ご本人の思いを奥様に伝えた時、「やっぱり、そう思っているのですね。居なくなると私はどうしたら良いのか。一人は辛すぎます、寂しすぎます。」奥様は涙ながらに話して下さいました。長年連れ添った最愛のパートナーが、自分のそばから永遠に消えてしまうという現実を、奥様はとても受け入れることができなかったのだと思います。
これまで最期の治療について、ご夫婦の間で深く話し合ったことがなかったため、それぞれの素直な気持ちを直接話すようにお伝えしていました。しかし、いざ状態が悪くなると最終的には家族や医師に促され、渋々入院を選択されるのでした。患者さんの入院はしたくないという気持ちと、家族のまだ生きていてほしいという願いが交差する中で、患者さんは、最終的には家に帰ることを条件に入院生活を受け入れていました。
家族から見れば、目の前の大切な家族が、ただ食べられなくなっただけなのに、死と隣り合わせだということが、どこか不自然に映っていたのではないかと思います。また、何もできない罪悪感に苛まれていたのではないかとも予測します。悪いところがあれば手術する、動けなくなったらリハビリをする。これまでの医療は何かをプラスする治療を行ってきました。しかし、老いによって食べられなくなっていくという自然な衰えに対して、もしかしたらいなくなってしまうのではないかという現実を直視することは、容易ではないのです。そんな時、入院して点滴を受けるという目に見える明確な治療を行うことで、家族は心を救われていたのではないでしょうか。
3.生きるのは家族のため
患者さんは自分自身の死生観があり、最期も怖くないと言われ覚悟は出来ている状態だと思っていました。それなのに、なぜ患者さんは嫌がっていた点滴をし、何度も入退院を繰り返されたのでしょうか。
ここで私たちは、何のために生きるのかという問いに立ち返る必要があります。誰しも、自分の夢を叶えたい、自己実現したい、人生を楽しみたいと願って生きています。しかし、環境の変化や病気によって体の自由がきかなくなった時、人は一時的に絶望し生きる気力を失ってしまうことがあります。人生を後悔する人もいれば、反対にやり残したことはないとホッとする人もいるでしょう。
人生は人と人との関係性で成り立ちます。家族という存在があるからこそ、私たちは夫になり、妻になり、父親になり、母親になります。一人では味わえなかった経験や感情を家族という存在を通して与えてもらっているのです。その存在がいなくなってしまうのではないかと言われたとき、残される側は自分の存在も消えてしまうのではないかと怖くなるのは当然のことなのです。
この患者さんの場合、本音は住み慣れた我が家で静かにその時を待ちたいという気持ちだったはずです。しかし、揺れ動く奥様の気持ちを感じながら、このように思われたのではないでしょうか。妻が現実を受け入れ、心の整理がつくまで待っていようと。
入退院を繰り返していた患者さんは、最終的に中心静脈栄養という治療を選択することになります。これは、腕の血管からの点滴だけでは十分な栄養を補えない場合に用いられます。心臓に近い太い静脈(中心静脈)にカテーテルと呼ばれる細い管を通し、高カロリー輸液を直接体内に注入するという治療のひとつです。
その後、私は異動をしたため患者さんにお会いすることはなくなりました。現在もご存命で高カロリー輸液をしながら、大好きな甘いものを好きな時に好きなだけ食べられているそうです。随分、お痩せになったそうですが医療の力を少しばかり借りて、ご家族の気持ちに寄り添うかのように共に過ごす時間を大切にされているそうです。
4.平穏死を迎える準備
医学生のバイブルに「ハリソン内科学」という本があります。そこにはこう書かれています。「死を迎える人は、いのちを終えようとしているのだから食べないのだ、食べないから死ぬのではない」という一説があります。
この患者さんの場合、80代になったばかりでした。超高齢化の日本ではまだ若い年齢なのかもしれません。それゆえに、ご家族のまだ生きていてほしいという願いが、より切実で強かったのだと感じています。私は最期の選択には正解などなく、それぞれの死生観や家族関係か大きく影響すると考えます。
患者さんとの出会いや、これまでの人生経験を振り返る中で、私は自然に老いて人生を終えたいと願っています。
皆さんは、ご自身の人生の終え方について考えたことがあるでしょうか。現代は健康意識が高まり、長生きをするための情報はあふれていますが、どのように老いていけばよいのか、周囲の人と話す機会はまだ少ないように感じます。時にはあえて自ら不便な環境に身を置いて、自然の摂理に沿った過ごし方をするのも必要だと感じています。幸いにも日本には豊かな自然環境と四季があります。生きることも老いて死んでいくことも、自然には抗えないと改めて感じることで、人生の終え方を考えることが出来るのではないでしょうか。
また、生きることが全てであるという考え方も、亡くなる方を目の前にすると苦しくさせてしまっているとも感じます。生も死も両方あって初めてひとつの人生だと定義しなおすことも大切なのではないでしょうか。
5.まとめ
ここまで読んでいただいてありがとうございます。日本の医療現場では以前からACP(アドバンス・ケア・プランニング)の普及が進められています。これは、人生の最終段階に自分が望む医療やケアについて、前もって考え、家族と医療チームと繰り返し話し合い、共有していくプロセスのことです。
今回のケースでは、本人の意思が尊重できていないと思われるかもしれません。しかし私は、お互いの納得いく選択を家族と言葉を交わしながら行うことが大切だと感じます。
この患者さんは事前に「点滴はしたくない」と伝えていました。しかし、状態が悪くなった時、奥様の「少しでも生きていてほしい」という心の揺れ動きを目の当たりにして、患者さんは「家族を安心させるために、入院して点滴を受ける」という選択をしました。
私は事前の意思を一番に尊重することだけがACPのゴールではないと思っています。それはこの患者さんから、ご家族とどれだけ言葉を尽くし、お互いを想い合って、納得のいく選択ができたかが大切なのだと学んだからです。
今回の記事が、同じようなケースで悩まれている方のヒントになれば幸いです。
参考文献
「平穏死」を受け入れるレッスン 著 石飛幸三
「人生会議」してみませんか|厚生労働省 厚労省ホームページ
この記事を書いた人
郷堀有里夏
<プロフィール>
看護師経験30年。急性期病棟やICUを10年経験した後、施設看護や訪問看護、ケアマネジャーとして多くの介護を必要とする方々やそのご家族と関わる。
県外で勤務していた頃、母親が介護状態となり地元へ帰省する。
仕事と介護と自分の人生に悩んでいた頃、認知科学を学ぶ。
学びを通してわだかまりのあった親子間や家族間の葛藤を解消し、介護中に修復する事が出来た。そして、母親を施設から引き取り家族と共に在宅看取りを行うことが出来た。
自身の経験を通して、「健やかに自分らしく生きること」や「安心して介護や看取りが行える環境づくり」が重要だと感じ、心の介護専門家として講座やお話会を通じ情報を提供している。
<経歴、職歴>
(一社)日本ナースオーブ所属 Wellnessナース
看護師経験30年(訪問看護管理者、施設看護、介護支援専門員、救急センター、ICU)
保険外自費サポート ひかりハートケア登録ナース
<講座>
親にイライラしない介護コミュニケーション/ウェルネス講座
<その他の活動>
心から看る介護と認知症のお話会
後悔しない親の介護 / ブログ
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