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逃げ場がない介護!バーンアウトしないための心がけ

超高齢化社会を迎えた現在、今まさに介護をしている人だけでなく、私もいずれ介護してもらう側になるのだろうな、私の親もいずれ介護になるのだろうなと、介護は大半の人に関わるようになっています。

そして家族の介護はある日突然始まります。「育ててくれた親だから」「大切なパートナーだから」「私しかいないから」と介護を始めますが、介護の負担は予想以上に重く、24時間・365日終わりの見えない介護の日々に追われるようになっていきます。

私は、2人の祖母のキーパーソンとして在宅介護をした母の姿を見て来ました。その母がバーンアウトにならないために行っていたことや、心がけていたことについてお伝えします。

この記事の目次

1.在宅介護1人目の母の様子

母も私も看護師です。母は個人病院から総合病院を経て、施設の立ち上げや管理職としても働いていたので在宅での看護・介護には理解がありました。そして私自身も内科の総合病院や施設・訪問看護師を経験し、身内は家族が介護するのが当たり前という考えになっていました。

母方の祖母(ヒサ子)が認知症を発症しました。徘徊や暴力、暴言、失火なども起こすようになり、私たち家族が同居して一緒に介護することになりました。その時の家族構成は8人で、核家族が一般化した平成12年頃には珍しい大家族でした。

一緒に暮らし始めた頃、祖母ヒサ子は認知症がある以外は足腰もしっかりしており、ごく普通に日常生活も会話も出来ていました。ですが孫たちの成長とは逆に、徐々に歩けなくなり、食べられなくなり…、寝たきりになっていきました。食事に時間がかかるようになり、2時間かかることもありました。

祖母が自分で出来ることが一つ一つ減っていき、母の介護負担は増えていきました。責任感の強い母は仕事を辞めることもせず、今から思えば驚くほど多くの役割をこなしていました。もちろん8人家族だったので、父や私、私の娘や息子も介護を手伝っていたから母の負担が分散されていたというのもあるでしょう。

しかしながら母が祖母の介護を続けることができたのは、それだけではないと思います。母は上手に手抜きが出来る人で、介護しながらも、それまで続けていた仕事、趣味のコーラス、趣味のパチンコ・趣味の絵画、友人との付き合い、宗教活動など、変わりなく続けていました。

生活が介護一色にならないこと、家族だけの生活にならないことが、母の精神力を維持していたのだなと、そばで見ていた私は明らかに感じました。介護は体力、時間、そして精神的にも力を奪っていきます。その中でもっとも大切なのは『自分の時間を持つこと』であり、人との関わりを通して『心を守ること』ではないかと思います。

2.在宅介護2人目の母の様子

父方の祖母(フク)は103歳で亡くなりました。フク自身の子供は四人いましたが、長男の妻である母が看護師という事もあり、最期は長男宅で過ごしたいと希望し、二世帯住宅を建てました。

祖母フクは103歳の誕生日を迎えるころ、心不全を患いペースメーカーの植え込みの手術をしていました。1人で歩き、食事は自分で食べ、晩酌に刺身をつまみながら小さなビールを飲み、排泄も自立していました。103歳とはいえ、頭はしっかりしているため介護度が付かないほどで、デイサービスに行きたくても行けない状態でした。暇な日中はテレビを観たり新聞を読んだり日記を書いたりして過ごしていました。

ところが誕生日から2か月後、食事を終えて自室へ戻る際に転んでしまい、右肩と右大腿骨を骨折しました。それからは寝たきりになってしまいました。手術後にせん妄状態になって大声を出すため退院を余儀なくされてしまい、そこから母にとって2人目の在宅介護が始まりました。

自宅に戻ると、祖母フクは右腕を骨折していたため食事は全介助が必要でした。また、体力が急激に低下したのでしょうか、ほんの少しの量しか食べなくなりました。母は在宅医に相談して、高濃度の栄養食や点滴を依頼し、枯れ木のような細い腕に針を刺す日々が続いていました。その間母は傍から離れることなく、ずっとそばで付き添っていました。

祖母フクが家に戻ってきてから亡くなるまでの三か月半は、母は遠出もせず、趣味のコーラスも行かず、友人と会うのは自宅でした。仕事は辞めていましたが、宗教活動は続けていたため自宅で集まり、近所に出掛けることがあってもわずかな時間でした。ヒサ子の時を同じように家族が一緒でしたが、母は自らほとんどの時間を祖母の介護に捧げていました。

母はこんなふうに言っていました。「どこかに出掛けているときに、祖母に何かあったら後悔するから…」と。他の家族が介護しているときに、家から5分ほどのパチンコ店に少し出かける程度で、すぐに帰って来ていたのを覚えています。

祖母フクの認知機能は比較的しっかりしていましたが、亡くなる前10日くらいは夜間せん妄がひどくなり、大声で叫ぶため、母も父も眠れない夜が続いていました。この時期が、私たち家族にとっていちばん辛かったときでした。

認知症は仕方のないことと思います。同じような辛い状況の方もいらっしゃるのではと思います。ですが1人目の介護のときと最も違っていたのは、介護の中心にいる母の笑顔が消えていたことだったと思います。母はまるで自分が介護の全責任を負うかのような、フクの命を背負っているかのような感じで、介護に必死になっていました。

それが介護してもらう側にとって良いのか悪いのか、母の気持ちが荒くなればなるほどフクの認知症状も荒くなっていたように感じます。こうなってほしくない!と思えば思うほど、そうなってしまう状況。あるいは、こうしなければ!と思えば思うほど、そうできない状況。そうしたことが起こっていたような気がします。

もし母が1人目のヒサ子のときのように趣味や仕事、さまざまな付き合いを続けていたら…。手抜き介護をしながら、母自身も自分の生活を楽しんでいたら…。もしかしたら家族の雰囲気も、フクの様子も違っていたかもしれないなぁと思いますが、読者の皆さまはいかが思われるでしょうか。

 

3.バーンアウトしないための心がけ

両祖母の在宅介護を間近で見て数年経ち、そのころを振り返った今、介護でバーンアウトしないために次のような心構えが必要だなと感じています。

「100点満点の介護」を捨てる

プロの介護士でさえシフト制で、チームで交代しながら介護をします。家族だからといって、1人で完璧にこなそうとすることが、24時間続く介護においては不可能なのです。埃で人は死にませんし、食事はスーパーのお惣菜でいいですし、入浴介助を1回や2回飛ばしても命に影響はありません。

私たちであっても、毎日決まった時間に食事を摂るのが嫌なときがあります。その日によって食欲のある日と無い日があります。お風呂に入ろうと思っていても面倒になって、もう明日の朝にしよう~ということがあります。また施設においては入浴を嫌がる高齢者さんが多く、おそらく汗をかくこともなく、運動もしないし、出かけることもないため、お風呂に入る理由が見つからないのではと思うこともあります。

介護は100点満点を目指すのではなく、50点、いや30点でOKです。

②「愛があるからイライラしない」は幻想

大事な人だから、優しく接してあげなければ、という思い込みは自分自身を苦しめます。大事な人から理不尽に怒鳴られたり、夜中に大声で叫ばれて起こされたりすれば、イライラしたり、激しい怒りや憎しみを持つのは人として当然です。ネガティブな感情を抱いた時、自分自身を責めるのではなく「これほど過酷な環境にいればイライラして当然だ」と、自分の感情をそのまま受け入れてみてください。

③介護を「自分の生活の中心」にしない

介護が始まると、趣味、仕事、友人関係に制限がかかり、人間関係を失っていきます。介護は徐々に重くなっていくため、いつのまにか介護一色の生活になってしまう危険をはらんでいます。よって責任感の強い人ほど、きっちり屋の人ほど、他のことより介護を優先してしまいます。

しかしながら、介護を受ける人と自分の人生は完全に別です。「介護があるから旅行にはいけない」とか「自分の人生は終わった」と考えてしまうと、無意識に「自分が犠牲になっている」という気持ちになります。この状態を心理学の専門用語では『自己犠牲』と言い、結果的に誰も幸せにはなれないのです。介護は、生活の部であって、介護一色にならないよう心掛けてくださいね。

④「私がやらないと」の呪縛を解く

「他の兄妹はあてにならない」「自分がいちばん知ってるから」「このやり方がいちばんいいから」と、すべての介護を一人で背負い込んではいませんか? この「私しかいない」という思い込みが、周囲からの支援をシャットアウトしてしまう危険な呪縛になり得るのです。

もし、自分自身が倒れてしまったら?介護の負担が限界になって、周囲に助けを求めたくなったら?その時に誰も手を出せない状況を作り出しているかもしれません。よって介護は『あえて人の手を借りる』という戦略を持っておくことが大切です。

母は、在宅介護1人目のヒサ子のときは、上記の4点は全く該当していませんでした。ですが2人目のフクのときは、上記の4点すべてが該当していました。すると、亡くなった時の気落ちした様子にも大きな違いがありました。

「親と呼べる人がすべてこの世から居なくなってしまった悲しみは、理解できないでしょう?」「手がかかって、自分の時間を奪われて、身体的に辛くても、居なくなるよりはいい」と。

⑤愛情深いあなたへ

母は、情の深い人でした。友人や同僚、知人や昔仕事で関わった人など、さまざまな人からその愛情の深さについて話を聞いたことがあります。もちろん子供である私にも愛情深い人でしたが、それは家族にだけではなくすべての人類に対しての思いであると、年を重ねるごとに解ってきました。

亡くなったとき、心がすっぽり抜け落ちたような悲しみに包まれることが愛なのでしょうか?それとも笑って送り出してあげることが愛なのでしょうか?難しいところですね。また、自分の生活を犠牲にして懸命に介護することが愛なのでしょうか?それともある程度の距離をとり、互いの人生を尊重することが愛なのでしょうか?介護を通して考えることができれば、掛けがえのない経験になるのではと思います。

4.最後に

2人の祖母が亡くなり、自宅から離れても問題なくなった時、初めて母が遠出をしたいと言いました。父親の墓参りに行きたかったようですが遠方であるため、母は介護中は我慢していたようでした。ほかにも「孫息子の1人暮らしの生活を観たい」と片道5時間かけて移動し、1泊して帰って来たことがありました。

両祖母が生きている間、遠出をしなかった母が、出掛けるようになった今、母は毎日楽しそうです。母の介護負担は、家族に看護師がいることと、大家族で介護を支えるマンパワーが充実していたこともあって、一人で抱えている人ほどではなかったと思います。

長年介護をして来た母の姿を通して、改めてお伝えしたいことは・・

・在宅介護は1人で抱え込まないこと

・自分の人生に介護を取り入れないこと

・適度にさぼること

献身的に介護を頑張りすぎた結果、介護ネグレクトや介護殺人などの痛ましい事件があとを絶たないのだと思います。どうか、家族の介護に振り回されずにご自身の人生を大切になさってくださいね。


この記事を書いた人

看護師:栗巣正子 <経歴> 看護師歴 23年  大阪府堺市で、50床~2000床の病院勤務(内科、外科、手術室、整形外科、療養病棟)。 離婚後、鹿児島県鹿屋市にて、老人保健施設、透析専門クリニックに勤務 大手生命保険会社に、営業主任として3年勤めた後、地域密着型の内科総合病院に17年(介護保険病棟、療養病棟、急性期病棟、心臓内科、腎臓内科、肝臓内科、消化器内科、呼吸器内科、腹膜透析、血液透析、外来、救急外来、訪問看護)勤める。 現在は、派遣ナース、非常勤での健診スタッフ、訪問看護指示書作成等の委託業務、ナース家政婦登録 <資格> 正看護師/普通自動車免許/大型自動車免許/けん引免許/たん吸引指導者/ペットセーバー/労災ホームヘルパー(A)

看護師:栗巣正子

<経歴>
看護師歴 23年 
大阪府堺市で、50床~2000床の病院勤務(内科、外科、手術室、整形外科、療養病棟)。

離婚後、鹿児島県鹿屋市にて、老人保健施設、透析専門クリニックに勤務

大手生命保険会社に、営業主任として3年勤めた後、地域密着型の内科総合病院に17年(介護保険病棟、療養病棟、急性期病棟、心臓内科、腎臓内科、肝臓内科、消化器内科、呼吸器内科、腹膜透析、血液透析、外来、救急外来、訪問看護)勤める。

現在は、派遣ナース、非常勤での健診スタッフ、訪問看護指示書作成等の委託業務、ナース家政婦登録

<資格>
正看護師/普通自動車免許/大型自動車免許/けん引免許/たん吸引指導者/ペットセーバー/労災ホームヘルパー(A)

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